技術の粋を集めて作られたGP(グランプリ)マシンのエッセンスを一般公道でも体感したい、と願うエンスージャストは世界中に存在する。そしてそんな方にとって、デスモドロミックを採用するモデルをリリースし続けるドゥカティは、最も好ましい方向性の”ものづくり”をし続けているメーカーといえるだろう。
ギリシャ語のデスモス(=つなぐ、の意味)とドロモス(=道、の意味)を語源とするデスモドロミックは、4ストロークエンジンの特性の鍵を握るパーツであるカムシャフトによる、吸気・排気バルブの制御に際してバルブスプリングに頼らないメカニズムで、日本語では強制弁開閉機構と呼ばれている。
今、世界の2・4輪メーカーで、デスモドロミックを主要技術として採用しているのはドゥカティのみであり、デスモドロミックはドゥカティの代名詞的な技術ともいえる状況が続いている。なお、この技術のルーツはドゥカティが誕生する遥か以前にあり、内燃機関の黎明期でもある19世紀末にはすでにそのパテントが提出されていた。
20世紀に入り、まずデスモドロミックが採用されたのは、自動車レース用などの高性能レーシングエンジンからであった。通常4ストロークエンジンは、カムシャフトにより動きが制御される吸気・排気バルブを、バルブスプリングというパーツによって燃焼室内のバルブシートに密着させる構造をしている。このバルブスプリングは高性能なバネ材を用いて作られているが、20世紀半ばまでの時代のバネ材は今日のそれに比べるとはるかに品質が低く、レーシングエンジンでは高回転時でのバルブスプリング破損というトラブルや、往復運動をする吸気・排気バルブの動きに追従することができず、カムシャフトの制御から逸脱した動き(バルブジャンプ)を発生するなど、様々な問題になることが多かったのである。
デスモドロミック採用エンジンは、様々な国の様々なメーカーで製造されたが、4輪レースの世界で最も成功したのは、1954~1955年の間に、12戦9勝という圧倒的な成績でF1レースを席巻したメルセデス・ベンツであろう。F1の名機であるW196が活躍していたこの時期、ファビオ・タリオーニはドゥカティに入社した。この男こそ、2輪の分野でデスモドロミックを最も成功させたドゥカティの名声の、礎となったエンジニアである。
1920年、著名なサーキットがあるイモラに近い、ルーゴ・ディ・ロマーニャに生まれたタリオーニは、トラクターなどの修理をしていた父の影響で内燃機関に興味を持ち、青年期にはボローニャ大学で機械工学を勉強する道を選ぶことになる。第二次世界大戦の影響で、28歳でようやく博士号を取得したタリオーニはイモラの技術学校の教師に就職。そのころ描きあげた75ccレース用単気筒の図面が、ボローニャにあった2輪メーカーであるチェカートにより実用化され、その高性能ぶりからタリオーニの名はイタリアの2輪業界で注目されることになった。
1953年からタリオーニは、2輪レース界の名門だったFBモンディアルの開発陣の一員として迎えられることになる。タリオーニは同社に在籍していた2年の間、彼が大学時代から熱心に研究していたデスモドロミックの採用を訴えたが、保守的な考え方の経営陣は新技術であるデスモドロミックの採用案を拒絶。そのためタリオーニは鬱屈した想いを抱えたまま、他社への移籍を考える日々を送るようになった。
そんなタリオーニに、レース活動の総責任者という地位をオファーしたのは、当時はまだ後発の弱小メーカーであったドゥカティだった。1954年当時、33歳となっていたタリオーニはまず100ccのグラン・スポルト(マリアンヌ)を開発。そして並行して開発を進めていたトリアルベロ(3本カムシャフト)方式デスモドロミックを採用する125GPが1956年に完成。同年7月のスウェーデンでのデビュー戦で、125GPが2位を周回遅れにする独走ぶりで優勝。1957年は公道量産車開発に専念することを社に命じられたため、ロードレース活動は中断を余儀なくされたが、活動再開した1958年は王者MVアグスタと125ccクラスでタイトル争いを繰り広げ、最終的には惜敗するものの、デスモドロミック技術の優秀性を、世に知らしめることにドゥカティは成功するのである。一般に4輪用に比べるとより多く高回転域を使う2輪用4ストロークレーシングエンジンにおいて、致命的なバルブジャンプを起こすことがないデスモドロミックは、当時最も理想的な動弁系といえたのである。
1959年を最後にドゥカティのGPロードレース活動は終了するが、当時勢力を集中させていた北米向け輸出量産車開発の傍ら、タリオーニはデスモドロミックを採用した単気筒によるレース活動を散発的に展開している。これらの活動は次世代のドゥカティ公道車開発への布石であり、その結実として1969年に登場したのが、デスモドロミックを搭載する世界初の公道量産スポーツ、"250マーク3デスモ"だった。その後1970年代に入り、ドゥカティ公道量産車の主力はやがて単気筒から90度L型2気筒の大型スポーツへと移行することになるが、スポーツモデルの核心技術として、デスモドロミックはLツインスポーツモデルへと継承されることになり、その潮流は今日も変わることなく引き継がれている。
1972年のイモラ200マイル勝利以降、公道量産車をベースとするデスモドロミック採用の90度Lツインレーサーは、欧州耐久選手権、AMAスーパーバイクや、世界中で開催された2気筒エンジンによるレース、そして世界スーパーバイク選手権などで活躍し続けた。そして21世紀に入り、ドゥカティは1971~1972年の世界ロードレースGP500ccクラス参戦以来となるGPの復帰参戦を、2003年から開始。そして排気量上限が990ccから800ccとなった初年度の2007年、10勝を記録したケーシー・ストーナーがドゥカティ初のGPタイトルを獲得。排気量制限が再び変更(1,000cc)された2012年からも、ドゥカティのMotoGPマシンである"デスモセディッチ"は常に上位争いに加わり続け、現在エースライダーとして活躍中のアンドレア・ドヴィツィオーゾは2017~2019年の間ランキング2位の座を得ている。
デスモドロミックを採用し続けているのは、1980年代以降のドゥカティ製公道量産車と一緒である。一方、ライバルメーカーのMotoGPマシンたちは、金属バネ材のバルブスプリングの代わりに空気などの「気体」を使う"ニューマティックバルブスプリング"を採用しているが、この4輪F1譲りのハイ・メカニズムを有するライバルたちに対抗し得る成績を、1956年に実用化され始めたドゥカティのデスモドロミックはMotoGPで記録し続けているのだ。
レーシングエンジンの動弁系として考えたとき、高回転域で摩擦損失が増大することがデスモドロミックの弱点だが、シリンダーヘッドのコンパクト化などのメリットがある"ニューマティックバルブスプリング"にはない大きな長所が、デスモドロミックにはあるといえる。ニューマティックバルブスプリングは、金属バネの代わりとなる「気体」を制御するために必要なレギュレターなど、複雑な補機類の装着が必須となるため、量産公道車への転用は現代の技術では難しいとされている。また、量産公道車では大事な要素であるメンテナンス面でも、頻繁な管理が必要となるニューマティックバルブスプリングは、非常に不利である。
一方デスモドロミックは、1969年からすでに半世紀以上もドゥカティの公道量産車に採用された実績がある、公道用量産車にも適したメカニズムだ。MotoGPで培われた最新のデスモドロミック技術を、公道量産車にフィードバックすることがはるかに容易になっているため、最高峰のロードレースで磨き上げられてきた技術を一般のユーザーが購入できる公道量産車で体感することができる……。
スーパースポーツのパニガーレ系はもちろん、クルーザーのディアベルやネイキッドのモンスターシリーズなど、すべてのドゥカティ製公道量産車は長年レースの世界で輝かしい実績を残してきた、栄光のデスモドロミックの恩恵に浴することが可能だ。このことはドゥカティ公道量産車のオーナーになった者のみに許された、喜びのひとつといえるだろう。